ガンダム

ガンダムは戦争に巻き込まれた少年たちの葛藤が描かれている。
仲間たちが目の前で次々に死んでいく。
非常に政治的な物語の背景も含め、その内容はリアルであった。

アニメ(特にロボットアニメ)は子供のものである、という概念が一般的であった中、そのような政治的でリアルな内容が人気を得るなどと誰が予想しただろうか。もちろんガンダムはスポンサーサイド(ほぼ玩具メーカー)の意向を聞くフリをして、だましだまし製作されたようである。
アムロはこの作品の主人公である。SF、ロボット、戦闘ものであるのだから主人公はヒーローであるはずだ。ヒーローとは正義感にあふれ勇敢で、死をものともせず敵に果敢に立ち向かう。それがヒーローであった。アムロは違っていた。ヒーロー的な要素をほとんど備えていなかった。いわゆる等身大のリアルな主人公である。
しかし等身大の主人公とは普通、現代的な日常、その中での物語を描くような作品に登場するキャラクターであり、ロボットものには向かない。なぜならロボットに乗って戦争を戦う必然性とあまりにも乖離してしまうからである。
アニメという表現形態はもともと虚構性が高いのだが、いわゆるヒーローがロボットに乗ればそれは虚構そのものとなりその瞬間リアリズムからは余計遠ざかる。
なによりガンダムでは戦争をリアルに描くことがひとつのコンセプトであった。
では等身大の主人公アムロがロボットに乗る必然性とはなんであったか。
まずメカオタクであったこと。シンプルだし陳腐であるが、これはなかなか説得力がある。
最新鋭のマシンがメカオタクの目の前に現れたら、そりゃ乗ってしまうだろう。
それからガールフレンドの家族が目の前で敵の襲撃を受けたこと。
ちなみにエヴァンゲリオン庵野秀明はこのガンダムの第1話を最大限に評価している。そういえばエヴァの1話はガンダムと似ている。
言葉では説明しづらいスムーズな展開でアムロは、自然(に見える)な成り行きでガンダムに乗ることになるのだ。そしてあれよあれよという間にホワイトベースに搭乗し、いつの間にか軍人にまでなってしまうのだった。
多分アニメであるからこそ自然に見え、説得力もあり、またリアルにも感じてしまうのだと思う。同じ内容をほかのジャンル、たとえば実写で表現しても、何かギクシャクとして説得力の無いものになるだろう。
戦争自体が実はリアルなものとはいえなくなっていた現代に、リアルな戦争を描く手段としてのSFロボットアニメ−ガンダムは初めてそれを可能にし、また大きな人気を博した記念碑的作品であった。アニメ恐るべし。

元祖? 少女映画『お茶漬けの味』その2

田舎育ちの「旦那様」(佐分利信)はかなり素朴で庶民的な人柄である。
ご飯に味噌汁をかけるのが好きだし、タバコは「朝日」が好き、結構いい会社の部長さんなのに電車は三等席に「気安い」からあえて乗るのだった。
一方「奥様」(木暮実千代)はお嬢様育ちの有閑マダムでとにかく遊んでばかりいる。
この二人が、想像通り馬が合わない。というより奥様がそんな旦那様を退屈に思い、一方的に邪険にしているのだ。旦那様のその垢抜けなさがいちいち気に食わないようである。
この二人は家でいつも別々の部屋にいるのだが、その対比が大げさでおもしろい。
旦那様は座布団にこじんまりと腰掛け小さな机に向かっている。実に渋い。奥様は西洋風のモダンな部屋で暮らしているのだ。旦那様の会社の社長は奥様のお父さんの友達らしく、何かコネの関係がありそうで、なおさら旦那様の肩身は狭そうだ。
そして奥様は旦那様を「鈍感さん」と陰でののしり、うそをついて学生時代からの友達、アヤ達と泊りがけで温泉旅行に行ったりする。

と、ここまで文章にすると旦那様がかわいそうで、ひどい話にしか思えなさそうだが、実際の映画はそんな感じを起こさせない。
まず奥様とその友達たちが、皆いい年して女学生ノリなのである。
天然で自由で爽やかで少女的で(たまにリアルな描写もあるけど)、いうなればノリが子供のままなのである。憎たらしいけどとても憎めないのである。
そんな中、いつも奥様と遊んでいる姪のせっちゃんは、実は旦那様の見方でもあり、二人の間を都合よく行ったり来たりしている。
お見合いをサボって旦那様に庶民の楽しみ−パチンコや競輪やラーメンを、お嬢様の身でありながら教えてもらったりしていた(せっちゃんは一番自由である)。でもそれらは奥様にばれて旦那様はいつもしかられる。

こんな具合に、まあコメディー的要素も強い作品である。
小津安二郎の映画はたいがいお正月映画なのでいろんな(時に対立的な)関係性があっても大体平和なのであった。

さて、小津安二郎の映画はストーリーを聞いてもほとんど面白そうではない。
しかも現在からすればとてもではないが地味すぎる。活劇の黒沢明はえらい違いであろう。
しかし好きな人は今見ても十分に、いやめっぽうおもしろいと思う。
理由は萌えるからである。
まずセリフがおもしろい。その1でも言及したが無駄に「ちょいと」というセリフが出てきて
その響きに萌えたりする。
「ほんとなの?」「ほんとよー、とってもよ。・・・そうでもないか、せっちゃんコーヒー飲む?」みたいなセリフが出てくるのだが絶妙なリズム感といい、おとぼけ具合といい、最も萌える箇所の一つだ。
そのほか萌えるセリフが幾度となく出てくるし、人物の動きも同様に萌えるのである(ただ動きはとても文章では表せない)。

それから、ちょっとまじめな話をすれば、『お茶漬けの味』の天真爛漫で時に刹那的な少女性、そしてそれを見守る旦那様という構図は、あらゆる対立を、ひいては戦争を回避する小津安二郎の思想なのではと思えるのだ。
『お茶漬けの味』は戦時中、脚本の段階で検閲に引っかかり頓挫し、戦後リメイクされた作品である。
奥様のモダンさや、せっちゃんの自由なキャラ設定が時世にそぐわなかったのであろう。
劇中、戦争を忌避する描写が出てくるが、戦地の東南アジアの砂浜や青い海を懐かしがったりもして、悲惨さを爽やかに転回させたりと、さすがに小津安二郎、紋切り型にはしないなと思う。
とにかく、個性の違うものが同じ場所にいれば対立は自然に起こるし悲劇性を生む。戦争もそうであろう。
物語や映画の中でそういった対立、個性のぶつかりはストーリーの起伏のためにわざと設定されるのが普通だ。だれもが自明に感じ、そっちへ流されていきそうな展開を、小津安二郎はなにか一歩手前で回避してしまうような思想を持っている気がする。
その秘密はなんなのだろうと考えてもなかなか明確には言えないものだ。

ただ、「萌えた」という経験はそのヒントになるような気がするのだ。

余談
①劇中「旦那様」「奥様」と呼ぶ女中(メイドさん!?)の「ふみ」は後に石原裕次郎の奥さんになる北原三枝だが、これまた萌えます。
②『お茶漬けの味』という題名が気になるはずなのに言及しなかったのは見てほしいからです。
③世界の巨匠をサブカル扱いにしてもいいですよね?

元祖? 少女映画『お茶漬けの味』その1

世界が認める日本映画の巨匠、小津安二郎
『お茶漬けの味』は1952年の作品だ。
僕はこの映画が好きで何度も何度も見ているのだが、最近見ていないので記憶を頼りにこの記事を書く。だから間違いがあるかもしれないと先に記しておく。

この映画は個人的にだが、少女映画だと思う。
実際には少女は登場しない。登場する女性達は役柄的に既婚者がほとんどである。
津島恵子演ずる唯一の少女らしい登場人物も、「満で21、数え年で23」歳だからもう少女とはいえないかもしれない(リアル年齢はたしか27歳)。ではなぜこの映画が少女映画なのかといえば、それは小津安二郎の演出の仕方が原因だとしかいえない。小津安二郎映画の女性の登場人物は、おばあさんでも少女性を宿しているように感じてしまうのだ(たまにシリアスな映画もあるので全部ではない)。
七人の侍』で泥臭い演技をしていている津島恵子と比べてみてほしい。ジャンルが全然ちがうので比べようも無いが、同じ時期に二人の巨匠の作品でどう違うか、とても興味深い。

とにかく小津安二郎は鬼の演出で有名である。ある作品では、おばさんが部屋の中でくるっと体勢を変えて別の場所に行くシーンだけで何度も撮り直しをする。小津作品共通で「ちょいと(“ちょっと”とは絶対言わない)」というセリフが何度となく出てくるが、それも何度も撮り直す。そしてそれらのシーンはとてもかわいらしいのである。ほとんど「萌え」を先取りしていたとしか思えない。直接映画の内容と関係が無い部分にものすごいこだわりを見せるのである。


と、そういった具合に小津安二郎映画はおもしろい(意味不明)。
さて『お茶漬けの味』であるが、この映画は小津作品の中で飛びぬけて少女映画として萌えるのである。映画としての評価は小津作品の中では高くない。

ではどのあたりが良いのか、それは次回へつづく。

子供っぽさ

サブカルチャーは基本的に子供っぽい。子供=自由な発想。思考が何ものかの制約を受けることがない=自由のひとつのカタチ=サブカルチャー

これはサブカルチャーが子供のためのもの、ということを言いたいわけではない。
子供的であることはむしろ大人になりすぎた人にこそ必要であったりする。

大人でありつつ子供でもあること。

僕が一番サブカルチャー的感性で作られていると思うテレビ番組は、タモリ倶楽部であるが、あの番組ではみんな、まさに子供の顔になっている。
タモリ倶楽部が取り上げるネタはいつも、世の中にあっても無くてもいいようなものだ。
端的にいえばそれは「意味」がないもの。大人になると、人はたいてい無駄なことをしなくなる。ここで無駄なこととは意味が無いこと。サブカルチャーとは意味を考える前に感性が赴くまま引き込まれるような対象ではないだろうか。

「大人と子供」がひとつのテーマだと思え、僕が好きなアニメに『ハウルの動く城』がある。
劣等感に付きまとわれているソフィーはハウルが子供であること、ヘナチョコであることを積極的に擁護する。ソフィーにとってはそんな子供っぽくヘタレなハウルは自然で、そしてなにより自由であり、実に羨ましいのである。もちろんハウルは自由(=魔法使いであること)の代償として、命にかかわる契約を交わしているし、大人の戦争に利用されそうにもなる。ハウルはそのように自分を“最良に(ヘタレであることさえも)評価してくれる”ソフィーを守るために、なんとヘタレから脱出するのだった。
本来ソフィーがハウルのヘタレさ(子供っぽさ)を擁護したのは、大人へと成長して欲しいためではもちろんない。ソフィーにとってみればハウルの成長は思ってもみなかったことであり、ヘタレの擁護が別の効果を偶然生みだしたということなのである。もちろんヘタレを脱出したハウルをソフィーが否定することはないだろう。ハウルは自由で自然な意志をもって成長したのだから。ソフィーは図らずもその原因となったまでだ。ハウルははじめて利他的な意志を持つことの原因となってくれたソフィーに感謝することだろう。
しかし、繰り返すがここで大事なのは、ソフィーの意図とは関係なく、ハウルが成長する(大人になる)のは、事後的な解釈であり、語義矛盾のようだが、ハウルは子供であったから、(良い)大人になったのである。

もし、この物語を現代的な機能主義の物語にすれば、次のようになるだろう。
 ハウルは子供っぽく、またヘタレである。ソフィーはそんなハウルを「良い方向」に促したいと思った。ソフィーは『大人になるための100の方法』という本をハウルに読んで聞かせ、また叱咤激励「してあげる」。ソフィーの献身によってハウルはめでたく大人へと成長したのでした。

実際こんな物語はおもしろくないので作られることは無いが、現実社会では一般的なストーリーでは無いだろうか。直接的で即効的な効用(意味のあること)を求めるあまりこうなってしまうだろう。
ここにはすでに多様性の擁護などは存在していない。子供―大人、未熟―成熟の二元論があるだけだ。
だいたい、ハウルは子供―大人(二元論)の世界観に反発する象徴的存在としてあったはずだ。ハウルはソフィーを大人世界(戦争等)から守るために、結果的に成長した(大人になった)のである。その過程にあったハウルとソフィーの意味(世間)を超えたコミュニケーション自体や、タモリ倶楽部のような戯れ的コミュニケーションが偶発性を生み、時に大切なのである。
大人であると同時に子供でもある、あるいは子供でも大人でもないということ。

サブカルチャーはこんな人のためにこそある。

メイドさん

メイドさんはとても面白い存在である。

「メイド」という言葉が意味するのは、僕の中では以下のようなことだ。

①.家政婦さんやお手伝いさんといった、本来の意味のメイド。
②.1とはまた別のものとしてアキバにて、コスプレ要素を重視してできたエプロンドレスのウエイトレスがいる「メイド喫茶」と、そこから派生したその他のメイド関連店のメイドさん
③.1や2からさらに抽象化され、おもに少女性を感じる想像的キャラとして一般化した「メイドさん」。(想像的キャラとしての「女子高生」が実際の「女子高生」とはもはや違うような。)

③のことを経て、②は発展し現在のアキバのメイドさん像があると思える。


「ナースコス」や「婦警コス」といった職業コスはコスプレ以上ではなく、メイド関連店のメイドさんはそれ自体が本来の①のような「メイド」とは独立した「何か」であり、もはやコスプレではないというように思える。
②のメイド喫茶の初期段階ではいまだ「コスプレをしたウエイトレスさん」という風に見えていたと思う。
現在ではメイド喫茶に行ってメイドさんを見たとき、僕たちは「メイドコスをしたウエイトレスさん」という風には感じず、単に「メイドさん」だと思う。
ということは今、メイドさんが職業として一般化したのだろうか。
そうではなくその一般化とは③なのだというように思える。

メイド喫茶の初期段階に、メイド喫茶メイドさんとは違ったリアルなメイドの物語「エマ」が高い評価と人気を得ていた。当時「エマ」を受けて、「メイド喫茶のメイドは正統ではない」というような議論があったように記憶する。
今は、リアルなメイド(家政婦さん的な)とアキバのメイドさんを比較するような議論はほとんどなくなったように思える。

しかし、こういったこともある。
新しいメイドさんより、ベテランのメイドさんの方がより「メイドさん」だと感じる。
あるいは、メイドさんによって「メイドさん度合い」が違うように感じる。

これは、「メイドさん」というキャラが宿っているかいないかということ、つまりメイドさんとしての「キャラ立ちの度合い」なのだというように思う。
メイドさんのキャラ立ち(もはや「メイドさん」以外には見えないこと)は、前述のように幾重にも重なったメイドさんイメージの歴史がある中、とても難しいように思えるが、意外とすんなりメイドさんとしてキャラ立ちしてしまう、「生まれたときからメイドさん」的人物もいるように感じます。

メイドさんは面白い存在である。

萌え

個人的萌えの記憶

一般的に萌え絵のルーツは少女マンガにあると言われている。一方で、手塚治虫の絵柄にすでに萌え絵の特徴が見られたということもあるが、ここでは個人的な記憶が中心なので、すなわち手塚治虫の絵柄に萌えを感じた事が無かったので(今は萌えたりもする)そちらの議論は登場しない。

それまでの少年漫画にはなかった絵柄、目が大きく瞳が輝いており、鼻と口はその目の存在感に比べて非常に控えめで、絵のタッチは繊細で少女性を宿した内面を感じさせる。
1978年、高橋留美子が少年漫画誌に「うる星☆やつら」を、あだち充が「ナイン」を連載し始める。高橋留美子は女性的な絵柄で少年漫画を描く作家であり、逆に当時のあだち充は少女マンガの作家であった。このことは少女マンガ的な絵柄や手法が少年漫画に導入されたことを意味し、萌え絵のルーツにとって非常に大きい出来事なのである。

少女マンガ的絵柄に加えて、少女マンガに特徴的だったラブコメが少年誌に導入されたということも(が)とても重要なことだ。少女マンガ的絵柄で恋愛漫画=ラブコメを少年誌に書き始めたということだ。1978年には柳沢きみおによって少年誌初の「ラブコメ」といわれる「翔んだカップル」の連載も始まっている。

1980年代になると少年漫画誌上でラブコメがひそかなブームとなる(個人的にかもしれないが・・・)。
個人的に特筆したい作品はちば拓『キックオフ』(1982年)である。このマンガが少年誌において画期的な作品であったことは間違いないことのように思える。初期の萌える絵柄とは、少女マンガの絵柄を男性の作家が描き、ストーリーのなかで恋愛等の微妙な関係性の描写を重んじるようになったことにおいて発展した、というのが僕の考えである。
当時、少女マンガを読んだことの無かった僕にとって、「キックオフ」に描かれた繊細(?)な感情描写(セリフ無しで見つめあうばかりの主人公二人)は衝撃的な出来事であった。
同時期にジャンプに連載されていたストップひばり君やウイングマンも現在につながる美少女(ひばり君は男の子だけど)が登場する少年漫画のさきがけといえよう。

そして1984年、僕にとっては真打となる作品が登場する。まつもと泉きまぐれオレンジ☆ロード」である。ヒロイン「鮎川まどか」の顔のデザインは現在の美少女マンガに直接つながる感じがするのだ。絵の影響としては「ストップひばり君」の江口寿史ではないかと思えるが、そのツンデレ具合も含めて萌えに関しては大きな違いがあるように思える。
まつもと泉のアシスタントで「バスタード」の萩原一至はさらに萌えるデザインを洗練させていく。同時に1984年には江川達也も「BE FREE」でデビューしており、そのアシスタントの藤島康介は「逮捕しちゃうぞ」や「あぁっ女神さまっ」で萩原一至とともに、その女性キャラのデザインにおいてカリスマ的な存在となっていく。
萩原一至藤島康介のデザインから、直接的にも間接的にも影響を受けたことの無い萌え絵漫画家はいないのではないかと思えるくらいに。

オタク

1.「オタク」という言葉は中森明夫氏による1983年の『「おたく」の研究』というコラムによって広く一般化したようです。この方はアイドル評論家としてとても有名なひとですね。なぜオタクはオタクと呼ばれるようになったのか。
彼らが、二人称として「君は〜」や「あなたの〜」という代わりに「おたくは〜」「おたくの〜」と言っていたところから、オタクという言葉が生まれたようです。なんだか主婦のようですね。「○○さんのお宅は〜らしいですわよ、お宅はどうですの?」みたいな。
今はそんな風に呼び合うオタクはいるのでしょうか?
オタクも主婦も、おもに家(宅)の中にいることが多かったから、自然に「オタク」と呼び合うようになったのでしょうか。
さて、オタクには第1世代〜第4世代という世代区分があるようだ。
第1世代は1960年代生まれ前後のオタクたち、以降だいたい10年おきの世代間があるようです。
ちなみに自分は第2世代の後期ということになりそうです。
80年代の少年期にファミコンの発売や少年ジャンプ(キャッツアイ、キャプ翼、セイント星矢、北斗の拳ドクタースランプきまぐれオレンジロードドラゴンボール・・・)の黄金期があった世代ですね。
「AKB48」の秋元康が「おニャン子クラブ」をプロデュースしたりしました。ポストモダンという言葉がもてはやされ、消費文化が加速しバブル経済に突入したり・・・
閑話休題
オタクの第1世代はもっぱらSF(サイエンス・フィクション)ファンが担っていたようですね。1963年に手塚治虫によって初の日本制テレビアニメの鉄腕アトムが制作され、つづいて鉄人28号、エイトマンなどが放映されました。
70年代に入るとSF、ロボットものアニメが子供達を中心にブームとなりました。当然それらはもともとが子供向けに作られたものでしたが、そんななか緊密な設定とリアルなメカ描写、シビアなストーリーで構成された「宇宙戦艦ヤマト」はもっと上の世代に一大ブームを巻き起こす(そしてその流れは79年の『ガンダム』誕生にいたるのでした。)
『ヤマト』に敏感に反応した人たちが今につながるオタクの典型なのではないかと思えます。それは基本的に子供向けに作られていたアニメに対して子供としてではなく、青年あるいは大人として真剣に愛好する態度。
そして75年にはコミックマーケットが開催されている。
オタクが愛好する対象はSF、コンピューター、鉄道、アイドル、プロレス、映画など色々あると思えるが、やはりマンガとアニメが重要で大きな位置を占めているのは確かだろう。
日本のマンガとアニメは、アニメ絵(萌え絵)といわれる美少女の絵柄や、少ないセル画で細かな表現を可能にする洗練されたリミテッドアニメの手法というような非常に独特な発展を見せたのだった。