『ひぐらしのなく頃に』

現実社会において人と人との関係性は一筋縄ではいかない。
当たり前といえば当たり前すぎるが、まあもともとそうなのだからしょうがないといって済ませられる程度の問題ではないから厄介である。人の前向きさを削ぐ要因ともなるのだから悲劇的ですらある。
人間関係は非常に複雑である、という表現がよく使われている。
確かにそうなのだろうが、ではその複雑な関係性を細かく解き明かしていけばいくほど、透明でスムーズなコミュニケーションが成就されるのだろうか。
そうはならないと思う。
現実には「偶然性」というものが、とても大きく立ちはだかっているから。
偶然性は誰も阻止できないもの。
偶然性が積み重さなって良くも悪くも思わぬ関係性を生んだりするし、自分の言動が偶然のタイミングで意図しない方向へ他者に作用したりする。
ほとんどくじけそうになることばかり続くこともある。
でもくじけずに良いと思う方向を信じていかなければいけないのは、「どうせ無駄だ」と思って日々をすごしていると余計悪い方向へ進むことになるのが明白だから。
決して積極的な理由とはいえないのが悲しい。

上記の人間関係の条件に加えて、現代は共同体の共通意識の崩壊がすすみ、人々の結びつきは薄らいでいく一方である。
他方、ネットワーク環境の充実などにより、つながりの脆弱なコミュニティーや、個人単位で完結した狭いライフスタイルが、ある種のあきらめとともに、当たり前に感じられる社会が拡大しているのだといえる。
大きな共同体内での利他的な精神や対等な信頼関係の再構築は、ますます困難なものである気がしてくる。

現実で叶わないことがらを、虚構の中で表現するということに関してネガティブなイメージを喚起する場合もあるが、現代のように動機付けも希薄で、希望を持ち難い社会において、アニメやゲームのように虚構性の強いジャンルの隆盛は必然的なことのように思えるし、さらにそれは決して消極的ではなく、強い積極性さえ感じてしまうのだ。

特に『ひぐらしのなく頃に』はそういった強い積極性を感じさせる作品だった。
ひぐらしのなく頃に』はミステリーの要素もさることながら、その悲劇的な人間性の表現において秀逸な作品だと思う。

一般的にアニメのキャラクターは視聴者を裏切らない。世界観はブレない。
正義感や純粋さ、邪悪さや暴力性など統一感の崩れないキャラクター、しっかり成長していくキャラクター・・・。
たとえばどれだけ荒唐無稽なキャラクターでも、その荒唐無稽さにおいて統一感を持っている。
そしてキャラクターたちは物語の筋に沿った透明なコミュニケーションを展開していく。
前述したような現代社会において克服することの難しい、人間関係の不透明さや存在感の曖昧さからは縁遠い世界が広がっている。
アニメのそういった雰囲気や設定に人は癒されるだろう。
アニメを支えるキャラクターとは一種の安定感であり安心感なのだと思う。

しかし『ひぐらし』のキャラクターは、一般的なそれとは違っていた。
疑心暗鬼の連鎖で、キャラクターの性格が次々と崩壊し、あるいは完全に別人格になってしまうのだった。
人の認識は、その時々の環境や心理状態でいくらでも様変わりしていくといったような、リアルな現象が、アニメならではの演出で次々に展開されていくのだった。
一般的には、統一感がありブレのないことが、物語を進行させるキャラクターというものの条件であるはずなのに、『ひぐらし』はそれがいつ崩壊するか、予測もできずひやひやしながら見守らなければならないのである。
キャラクターというものの一般的な性質を逆手に取り、いわばアニメに対する裏切り行為とも感じられる手法で、現代的な問題−加速するコミュニケーションの不透明性を積極的にしかも容赦なく表現した『ひぐらし』は、圧倒的にリアルな説得力を感じさせた。
そして『ひぐらし 解』においては、繰り返されるその宿命的なコミュニケーションの悲劇性、疑心暗鬼、誤解などに徹底的に打ちのめされ、何度も絶望しながら、どうにかそれを乗り越えるための闘争が感動的に展開されるのだった。

ひぐらし』は、アニメの可能性はもちろん、辛抱強くコミュニケーションすることの意義、単独の無力さをカバーし人がつながることの可能性、動かしがたい現状から飛び出すことの必要、その他とても多くの示唆を得られる作品である。