サブカル

秋葉原の通り魔事件から一年がたった。
早いのか遅いのか分からない。
1年が確実に経ったように感じる。


当時を思い出します。

・憎たらしく思った。普通の嫌悪の念である。
・同時に人間の行為として分かる自分がいたと思う。
・同情した。かわいそうな人だと思った。
サブカルチャーが一つの彼の救いだったが、救われなかった。

そして今もあまり変わりは無い。
・やっぱり分かる。引き金はたくさんある。孤独、猜疑心、美意識・・・。
・社会が止められないという問題。以前であれば、歯止めあるいは救済があったとする論議だけがある。
・欧米並みに自由の概念が発達したのかもしれない。
・宗教的救済は絶対無い。
・極少ない割合で、しかし必ず起こりえる問題である。建前として自由主義であるから。
・一番は快楽としてあるのかも知れない。

引き金がいっぱいあることと、歯止めが一個も無いこと。
身も蓋も無いこの事実が一番問題だと思う。

どうあっても許せないような不条理、あるいは醜悪が社会にあふれてしまっているのだろう。
多分、不条理(ここでは経済的なもの)より美意識の無い醜悪(普通それを不条理というかもしれない)が目立っている。絶望的に。

醜悪とはなんだ。いつも感じていることである。醜悪は世の中に蔓延している。
しかし誰もが自身で歯止めをかけていると理解していた。
自分自身の鏡でもあるのだから。
謙虚になることは微塵もなく、堂々とはびこる醜悪が目に余るのだ。
汚いだろうそれは。さぞかし汚いだろう。
美意識を1%も持っていないのだ。これではイヤになるのも当たり前かもしれない。

イデオロギー(集団的な無意識と見せかけて、誘導する民主主義という名の日和見主義)
か美意識か。

近代はどちらかを選ぶはず。

どちらもなくなってしまったのかもしれない、日本は。
美意識的な自己制御はほとんど期待できないかもしれない。

宗教もないし。

宗教は本当は美意識と関係があると思う。通俗化すると道徳になるだけで。
ただもっと一般化すると寄る辺の問題なのだと思う。
最終的に1人になってしまったときでも寄り添える場所。
その点、武士道的な美意識は確かにすごいと思う(日本に美意識があった!?)。
今はありえないが。
宗教的歯止めは寄る辺の問題だ。いわゆるアイデンティティーだけど、それを日本は今後絶対期待しないほうがいい。


それは三島由紀夫さんが体を張って訴えたのだと思う。
唐突に三島由紀夫という名を挙げました。
三島由紀夫さんはサブカル、あるいはフェイクを人生を賭けて体現していました。
日本(という美意識)と同一化するためにかもしれませんが。