江戸-東京散策


江戸-東京の散策がサブカル的な感性を刺激するのはなぜだろう。
それは京都を散策するのとは明らかにちがうだろう。
もともと町人文化が大いに栄えた江戸自体がサブカル都市だったのかもしれない。
江戸の文化が現代のポストモダンと親和性があるという話も良く耳にする。

とにかく江戸-東京という街はサブカル的感性を刺激するようだ。
サブカル系文化人はみな一様に東京散策をせずにはいられないかのように見える。
地方出身者も東京出身者もである。
タモリ泉麻人みうらじゅんいとうせいこう山田五郎・・・

世界的に稀に見る独特な文化が大いに繁栄した江戸。
150万の人口を有する世界一の大都市となった。

が・・・
鎖国による平安を続けていた日本もついに世界史の波に飲み込まれていくことになる。
明治維新関東大震災、そして戦災という大転換を経て、急激に近代都市へと様変わりさせられていった。初めは違和感を隠せず不恰好に近代を取り込んでいったがいつしか得意のアレンジ力であらゆる異文化を飲み込んでしまった東京。
東京が他の大都市と明らかに違うのは、厳密な都市計画がなされてこなかったことである。
震災や戦災といったチャンスはあったものの予算の関係で都市計画は潰れていき、無秩序にそして自由に街が形成され発展していったのだ。
ところどころに江戸の匂いを残したり、性急な近代化による不恰好さや禍々しさが垣間見えたりする東京。そんなところが、細部に宿る面白さを発掘するサブカル人間の心をくすぐるのかもしれない。
東京の街並みは歴史や意味に回収されない過剰さに満ち満ちているのだった。



サブカル

秋葉原の通り魔事件から一年がたった。
早いのか遅いのか分からない。
1年が確実に経ったように感じる。


当時を思い出します。

・憎たらしく思った。普通の嫌悪の念である。
・同時に人間の行為として分かる自分がいたと思う。
・同情した。かわいそうな人だと思った。
サブカルチャーが一つの彼の救いだったが、救われなかった。

そして今もあまり変わりは無い。
・やっぱり分かる。引き金はたくさんある。孤独、猜疑心、美意識・・・。
・社会が止められないという問題。以前であれば、歯止めあるいは救済があったとする論議だけがある。
・欧米並みに自由の概念が発達したのかもしれない。
・宗教的救済は絶対無い。
・極少ない割合で、しかし必ず起こりえる問題である。建前として自由主義であるから。
・一番は快楽としてあるのかも知れない。

引き金がいっぱいあることと、歯止めが一個も無いこと。
身も蓋も無いこの事実が一番問題だと思う。

どうあっても許せないような不条理、あるいは醜悪が社会にあふれてしまっているのだろう。
多分、不条理(ここでは経済的なもの)より美意識の無い醜悪(普通それを不条理というかもしれない)が目立っている。絶望的に。

醜悪とはなんだ。いつも感じていることである。醜悪は世の中に蔓延している。
しかし誰もが自身で歯止めをかけていると理解していた。
自分自身の鏡でもあるのだから。
謙虚になることは微塵もなく、堂々とはびこる醜悪が目に余るのだ。
汚いだろうそれは。さぞかし汚いだろう。
美意識を1%も持っていないのだ。これではイヤになるのも当たり前かもしれない。

イデオロギー(集団的な無意識と見せかけて、誘導する民主主義という名の日和見主義)
か美意識か。

近代はどちらかを選ぶはず。

どちらもなくなってしまったのかもしれない、日本は。
美意識的な自己制御はほとんど期待できないかもしれない。

宗教もないし。

宗教は本当は美意識と関係があると思う。通俗化すると道徳になるだけで。
ただもっと一般化すると寄る辺の問題なのだと思う。
最終的に1人になってしまったときでも寄り添える場所。
その点、武士道的な美意識は確かにすごいと思う(日本に美意識があった!?)。
今はありえないが。
宗教的歯止めは寄る辺の問題だ。いわゆるアイデンティティーだけど、それを日本は今後絶対期待しないほうがいい。


それは三島由紀夫さんが体を張って訴えたのだと思う。
唐突に三島由紀夫という名を挙げました。
三島由紀夫さんはサブカル、あるいはフェイクを人生を賭けて体現していました。
日本(という美意識)と同一化するためにかもしれませんが。

『ヘアスプレー』

2002年から最近までロングランヒットしたブロードウェイミュージカル『ヘアスプレー』は2007年、映画としてリメイクされた。あのジョン・トラボルタが巨漢のお母さん役で出演して話題となり映画も大ヒットし、すでに続編の製作も決まっている。

日本公演も大好評のミュージカル『ヘアスプレー』ですが実は20年以上前、1988年に公開された映画がオリジナル作品なのです。

この映画は、サブカル映画としてどうしてもご紹介しなければならない作品です(個人的に)。
まずボルチモア出身の映画監督、ジョン・ウォーターズについてご紹介します。
監督した作品はそれほど多くありませんし、大作を撮る人でも無い(大作の依頼は来ないと思います)ので知名度はあまり無いと思われますが、一部ではカルト的な人気のある監督です
ジョニー・デップの初主演作『クライベイビー』を撮った監督でもあるし、カンヌ映画祭の審査員をしたりもするのです)。
カルトな人気を得る人なので、もちろん変わった映画を作るわけですが・・・とても人様にオススメできる作品ではなかったりします。
人格を疑われるほどに、それらは悪趣味です。
『モンドトラッショ』『ピンクフラミンゴ』『フィメールトラブル 』『ポリエステル』などは前知識無しには見ない方がいいかもしれません。

いずれもディヴァインという人が主演の映画ですが、彼女(彼?)は100kgを超す巨体でしかもドラッグクイーン(おかまさん)です。彼はジョン・ウォーターズの古くからの親友なのですが、映画でその強烈なアウトサイダーぶりを炸裂させています。
アウトサイダーやマイノリティーあるいは異端者に焦点を当てた作品は多くの場合、彼らに対する一般的な偏見を取り除き、魅力的に輝かせるというような作りになることが普通だが、ジョン・ウォーターズはディヴァインを思いっきり異端者に、そして悪趣味に映し出した。たぶん実際のディヴァインをより過激にディフォルメしたと思われる。ジョンウォーターズの初期の映画は異端者は異端者として、悪意は悪意のまま、悪趣味はとことん悪趣味なまま終わるのだ。そこに社会的なことに対するアンチテーゼなどは一切無いだろう。あるのは多分「悪趣味の美学」とでもいえるようなもの。
B級映画と思われることのほうが多いが、そこで見られるのはピエル・パオロ・パゾリーニが『ソドムの市』で映し出した頽廃・背徳の美学と通ずるものだと思える。ジョン・ウォーターズはアート映画の愛好家でもあるらしいが、それを踏まえると実に納得がいく。ゾンビ映画スプラッター映画の作家にもアート映画愛好家が多いのだが、それらなんとも形容しがたい過剰な映画は美学無しには作られない。

ヘアスプレー(1988年)はジョンウォーターズが初期のインディーズ映画でカルト的な人気を博した後、比較的メジャーで制作された映画です。
さすがに得意の悪趣味は影を潜め、見事なエンターテイメントとして仕上がっている。
ジョン・ウォーターズの映画はあまり「一般的」にオススメできる映画が少ないのですが、『ヘアスプレー』に限ってはそんじょそこらのコメディー映画より断然エンターテイメントで面白いので必見です。(他の映画もオススメはできないだけで、すばらしく魅力的な映画です)

しかもただのエンターテイメントではなく、そこにはジョン・ウォーターズらしいテーマやアクセントがちりばめられている。

思い切り短縮して要約すると、
ダンス番組で人気者になっていく巨漢の女の子が、ゴキブリ柄のドレスで踊る映画です。

少数派(マイノリティー)であることの劣等感を感じさせない天真爛漫な登場人物たちがアイロニーというより、もっと根源的なユーモアを教えてくれる映画です。
マイノリティーが自分たちを輝かせるには、たとえばあえてマイノリティーの場所に留まりメインストリームと極力交わらずにより個性を純化するという立場もあるだろうが、『ヘアスプレー』はその立場をとらない。
多数派と同じ土俵上(ダンス番組)で、土俵の枠から決して外れないにもかかわらず、なにかいろいろなものを飛び越えてしまうような身軽さと力強さを同時に感じさせるのです。

とにかく面白いのでぜひ、初代ヘアスプレーを見てほしいと思います。

そしてなんと制作予定の『ヘアスプレー2』はジョン・ウォーターズ自身が監督するようです。
楽しみすぎます。

追記
ジョン・ウォーターズの悪趣味系映画を見てみたいという方には、同じくメジャーで制作されながら過激なブラックコメディーを展開する『シリアル・ママ』がまずは段階的にいいかもしれません。

ゾンビ

ヒューマニズム系、社会派系、アート系に比して作品としての評価や作家性をかえりみられることの無いいわゆるB級映画・・・。
だが、映画の父リュミエール兄弟の時から、映画は今でいうB級テイストや見世物的趣向のほうが本来的なのかもしれないのだ。

前回のスターシップトゥルーパーズに続いて今回も映画についてです。
しのさんのブログにホラー映画の記事がありました。
僕もホラー映画が好きです。ホラー映画にもいろいろな種類がありますよね。
その一つ、「ゾンビ映画」について書こうと思いますがその前に少し前置きが長くなることをご了承ください。
まずホラー映画の種類から。
一つは猟奇殺人鬼系(サイコサスペンス)。
『サイコ』『悪魔のいけにえ』『羊たちの沈黙』『13日の金曜日』(以上4作品の犯人は同一人物−エド・ゲインがモデル)、日本では『CURE』、韓国では『殺人の追憶』などが傑作だと思います。
ただ『悪魔のいけにえ』や『13日の金曜日』などは、猟奇殺人鬼系というよりは「スプラッター系」と言ったほうが良いでしょう。他に『ハロウィン』や『エルム街の悪夢』、『スクリーム』、『ラストサマー』などがありますね。
猟奇殺人鬼系は(『セブン』のように)犯人の精神面に焦点が当てられますが、スプラッター系でそれは描かれない。
次にJホラー。
日本のホラー映画です。ジャパニーズホラーと言われ欧米のホラーとは違う独特な美意識が際立っています。『呪怨』『回路』『リング』『仄暗い水の底から』などなど海外からの評価も高い傑作がたくさんありますね。それらには、いわゆる幽霊がでてくることが多いです。
ハリウッドにも幽霊系(ゴースト系?)があります。『ポルターガイスト』、『エクソシスト』、『ペットセメタリー』などです。
そしてゾンビ系です。
ホラー映画で、もっともサブカル色が強いのがゾンビ系でしょう。エンターテイメント性もありますが「エクスプロイテーション映画」と言ったほうがいいかもしれません。「エクスプロイテーション映画」とは商業的利益を優先し、過激で刺激的な内容を低予算に作られた映画のことを言います。先ほどの「スプラッター系」もそうですね。
エクスプロイテーション映画としてホラーより頻繁に例に挙げられるのは、70年代黒人向けに大量に作られた「ブラックスプロイテーション映画」です。クエンティン・タランティーノらが大きな影響を受けました。
閑話休題
ゾンビ系もストレートに刺激的ですから、やはり商業的利益優先映画といわれてやぶさかではありません。ゾンビ映画は特に1980年代、世界中で流行し大量に制作されました。
『ゾンビ』『サンゲリア』『デモンズ』『死霊のはらわた』『バタリアン』『幽玄道士』・・・
ゾンビとはなにか―
「ゾンビ」は本来アフリカのブードゥー教の信仰に由来しているものでしたが、ゾンビ映画に出てくるゾンビは生きる屍=化け物のことである。青ざめた顔、あるいは腐りかけた姿でどんな攻撃をしかけてもへこたれない(笑)。ノソノソと近づいてくるが、つかまって噛みつかれるとその人もゾンビになってしまう。
そういった、みんながイメージするゾンビ像を作ったのは、ジョージ・A・ロメロである。
1968年の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』でそれは確立され、つづく『ゾンビ』で爆発的に世界に広まった。マイケルジャクソンの『スリラー』ももちろんロメロの影響です。
さて、ゾンビ映画の金字塔は、その名もずばり『ゾンビ』(DAWN OF THE DEAD・1978年)です。なんといってもロメロの『ゾンビ』です。必見です!
金字塔なので当然、ゾンビ映画にみんなが求める恐怖やグロテスクさが満載です。


しかし、ご安心ください。

特筆すべきことが他にあることこそ、金字塔たる所以なのです。


それは伝説にもなっている、ショッピングモールのシーン。
主人公たちは大量のゾンビに追われ、客のいない巨大なショッピングモールに逃げ込みます。彼らはショッピングモールを封鎖し、紛れ込んだゾンビたちも全滅させることに成功。
その瞬間ショッピングモール全体が彼らのものとなっていた。気が付けば、彼らは楽園を手に入れたのでした。巨大ショッピングモールには何から何までそろっていた。食料は大量にあるし、洋服、酒、宝石、武器、遊び道具それらがすべて彼らのものとなった。
それからけっこうな時間を割いて、少年心をくすぐる「夢いっぱいデパート生活」の映像が続き、この映画がゾンビ映画であることを忘れてしまう(!?)のでした。

すごい・・・。ショッピングモール占領から夢のデパート生活までのシーン、このおもしろさは激烈です。

しかし、何かに気付かされる。

監督が語るように、この映画は消費社会その他への痛烈な批判なのでした。
たしかにだんだんゾンビよりも人間の方が醜悪に見えてくる。

ただし・・・・・・・・・・説教くさくない!!

明らかにデパート生活のシーンは無邪気に描かれていて、しかも過剰に長く、なんとも愛おしいシーンなのです。
人間に対する皮肉と承認が同時に詰め込まれているようです。

良質なサブカル映画はヒューマニズム系、社会派系、アート系とは違って、多様な価値を承認する包容力を持っているように僕には感じられるのです。

※DAWN OF THE DEADは2004年に当のジョージ・A・ロメロによってリメイクされています。

スターシップ・トゥルーパーズ

きやさんのブログに紹介があった『スターシップ・トゥルーパーズ』。
僕も好きな映画作品なので紹介したいと思います。
原作はSF界の大巨匠ロバート・A・ハイラインの『宇宙の戦士』
(原作に登場するパワードスーツはガンダムモビルスーツのもとネタになったようです)。
1997年のアメリカ映画です。もう10年以上前の映画なのですね。
監督はロボコップトータル・リコールインビジブル等のポール・バーホーベン
この監督の映画を大真面目に見る人はいないでしょう。
どちらかと言うと「おバカ映画」を撮る人として有名なのではないでしょうか。
「おバカ映画」といっても決して絶対に悪い意味ではありません
(いい言葉が思いつかないだけです)。
少々子供っぽい内容ですが、それらは「マジ」で作られているのです。
マジでなければダメなのです。
そしてポール・バーホーベンは「おバカ映画」を撮る監督の中でももっとも
ハイセンスな監督の一人だと思います。
他には、『ナイト・オブ・ザ・リビングデット』のジョージ・A・ロメロや『ヘア・スプレー』のジョン・ウォーターズ、『ニューヨーク1997』のジョン・カーペンターなどの重鎮がいます。

さて『スターシップ・トゥルーパーズ』は、
地球連邦軍が巨大昆虫的な宇宙の生物と戦争する映画です!!

・・・・・・。

ここですでに引いてしまう人も多いことでしょう。
僕だって同じです。特にSFがものすごく好きと言うわけではないので、
ハイライン原作の映画といわれてもあまりピンときませんし、世代も違います。
しかしポール・バーホーベンが撮ったとなれば話は別なのです。
巨大昆虫との残虐な戦闘シーンや、地球軍の軍国主義的な描写や
マッチョイズムが手加減無しに繰り広げられる。
人間のある種の過剰さが描かれている映画なのですが、そこにはさらに監督自身の過剰さがプラスされているとしか思えないところが好きです。
その過剰さは嫌な感じを起こさせず(実際は嫌な感じするのですが)突き抜けているのです。
妙な勢いとスピード感があり、何か愛おしく感じられるのです。説得力すら感じます。
それは作家性といえるものだと思います。
はっきり言って悪趣味な映像と好戦的な描写のオンパレードで、それを監督本人は軍国主義に対するアイロニーだと語っているのですが、それにしてはあまりにも生き生きと描かれているので、本当にそうなのか疑問に思います。そこは突っ込んではいけないところなのかもしれません。

監督の過剰な何かに呆然、あるいは嫌悪感すれすれなのに、その勢いに圧倒されて、意図せずして愛すべき映像に見えてきてしまうような映画が好きです。

『ひぐらしのなく頃に』

現実社会において人と人との関係性は一筋縄ではいかない。
当たり前といえば当たり前すぎるが、まあもともとそうなのだからしょうがないといって済ませられる程度の問題ではないから厄介である。人の前向きさを削ぐ要因ともなるのだから悲劇的ですらある。
人間関係は非常に複雑である、という表現がよく使われている。
確かにそうなのだろうが、ではその複雑な関係性を細かく解き明かしていけばいくほど、透明でスムーズなコミュニケーションが成就されるのだろうか。
そうはならないと思う。
現実には「偶然性」というものが、とても大きく立ちはだかっているから。
偶然性は誰も阻止できないもの。
偶然性が積み重さなって良くも悪くも思わぬ関係性を生んだりするし、自分の言動が偶然のタイミングで意図しない方向へ他者に作用したりする。
ほとんどくじけそうになることばかり続くこともある。
でもくじけずに良いと思う方向を信じていかなければいけないのは、「どうせ無駄だ」と思って日々をすごしていると余計悪い方向へ進むことになるのが明白だから。
決して積極的な理由とはいえないのが悲しい。

上記の人間関係の条件に加えて、現代は共同体の共通意識の崩壊がすすみ、人々の結びつきは薄らいでいく一方である。
他方、ネットワーク環境の充実などにより、つながりの脆弱なコミュニティーや、個人単位で完結した狭いライフスタイルが、ある種のあきらめとともに、当たり前に感じられる社会が拡大しているのだといえる。
大きな共同体内での利他的な精神や対等な信頼関係の再構築は、ますます困難なものである気がしてくる。

現実で叶わないことがらを、虚構の中で表現するということに関してネガティブなイメージを喚起する場合もあるが、現代のように動機付けも希薄で、希望を持ち難い社会において、アニメやゲームのように虚構性の強いジャンルの隆盛は必然的なことのように思えるし、さらにそれは決して消極的ではなく、強い積極性さえ感じてしまうのだ。

特に『ひぐらしのなく頃に』はそういった強い積極性を感じさせる作品だった。
ひぐらしのなく頃に』はミステリーの要素もさることながら、その悲劇的な人間性の表現において秀逸な作品だと思う。

一般的にアニメのキャラクターは視聴者を裏切らない。世界観はブレない。
正義感や純粋さ、邪悪さや暴力性など統一感の崩れないキャラクター、しっかり成長していくキャラクター・・・。
たとえばどれだけ荒唐無稽なキャラクターでも、その荒唐無稽さにおいて統一感を持っている。
そしてキャラクターたちは物語の筋に沿った透明なコミュニケーションを展開していく。
前述したような現代社会において克服することの難しい、人間関係の不透明さや存在感の曖昧さからは縁遠い世界が広がっている。
アニメのそういった雰囲気や設定に人は癒されるだろう。
アニメを支えるキャラクターとは一種の安定感であり安心感なのだと思う。

しかし『ひぐらし』のキャラクターは、一般的なそれとは違っていた。
疑心暗鬼の連鎖で、キャラクターの性格が次々と崩壊し、あるいは完全に別人格になってしまうのだった。
人の認識は、その時々の環境や心理状態でいくらでも様変わりしていくといったような、リアルな現象が、アニメならではの演出で次々に展開されていくのだった。
一般的には、統一感がありブレのないことが、物語を進行させるキャラクターというものの条件であるはずなのに、『ひぐらし』はそれがいつ崩壊するか、予測もできずひやひやしながら見守らなければならないのである。
キャラクターというものの一般的な性質を逆手に取り、いわばアニメに対する裏切り行為とも感じられる手法で、現代的な問題−加速するコミュニケーションの不透明性を積極的にしかも容赦なく表現した『ひぐらし』は、圧倒的にリアルな説得力を感じさせた。
そして『ひぐらし 解』においては、繰り返されるその宿命的なコミュニケーションの悲劇性、疑心暗鬼、誤解などに徹底的に打ちのめされ、何度も絶望しながら、どうにかそれを乗り越えるための闘争が感動的に展開されるのだった。

ひぐらし』は、アニメの可能性はもちろん、辛抱強くコミュニケーションすることの意義、単独の無力さをカバーし人がつながることの可能性、動かしがたい現状から飛び出すことの必要、その他とても多くの示唆を得られる作品である。

ガンダム その2

今ではアメリカも宇宙開発の予算を縮小させている。
当時はアメリカとソ連が宇宙開発を競っていた時代である。
核戦争の恐怖がある一方で、めまぐるしい科学技術の進化によってSF的な世界観が現実になるのでは、そんな(今よりはだいぶ)少年的な希望にあふれた時代だったと思う。
冷戦が逆説的に安定した世界の構造を形作っていた。特に日本の経済は成長していた。

「物語」がいろいろと生産される土壌が共通感覚としてあったと思う。
それは虚構としての物語にリアリティーを感じさるほどの力を有してもいた。
それは具体的にはどういった共通感覚(了解事項)であろうか。
たとえば、前出の宇宙時代が来るというのもその一つである。
その他、民主主義が世界中で達成されるとか、社会主義の世の中になるとか、女性の権利や社会進出が促進されるとか、もっともっと物質的豊かさに包まれるとか・・・。
それらのことがすべて消化不良的に、ある程度達成されたり、消滅したり、相対化されたりし、80年代後半には歴史が終わったということが言われたということを改めて考えさせられる。
そして、ガンダムをそういった時代の雰囲気の中で味わうことはもうできないのだと思った。
そしてその結果、現在は物語が生み出しづらい状況といえるようだ。(正確にはガンダムのような大きな物語はリアリティーを失ったが小さな物語はどんどん多様化している)
物語とは時間の経過により変化していくさまざまな様子が描かれるものだ。
「変化」とはもちろん良い方向にである。時間軸が発展や成長を表すという共通感覚があったはずである。
現在、時間の経過(未来)というものはなにかポジティブなものを連想させてくれるだろうか。これからの世界(歴史)は積極的な理念は生まれず、あきらめを含んだ流れのなかで、いろんなことの現状維持、あるいは動かしがたい条件の中で妥協点を探っていく、というイメージに変わっているのだと思える。
ダイナミックでリアルな物語は無いものだろうか・・・。
なにかマスメディア特有の不安をあおる手法におどらされているような感じになってしまった。嫌です。
面白いことはたくさんあるはずだ。