子供っぽさ

サブカルチャーは基本的に子供っぽい。子供=自由な発想。思考が何ものかの制約を受けることがない=自由のひとつのカタチ=サブカルチャー

これはサブカルチャーが子供のためのもの、ということを言いたいわけではない。
子供的であることはむしろ大人になりすぎた人にこそ必要であったりする。

大人でありつつ子供でもあること。

僕が一番サブカルチャー的感性で作られていると思うテレビ番組は、タモリ倶楽部であるが、あの番組ではみんな、まさに子供の顔になっている。
タモリ倶楽部が取り上げるネタはいつも、世の中にあっても無くてもいいようなものだ。
端的にいえばそれは「意味」がないもの。大人になると、人はたいてい無駄なことをしなくなる。ここで無駄なこととは意味が無いこと。サブカルチャーとは意味を考える前に感性が赴くまま引き込まれるような対象ではないだろうか。

「大人と子供」がひとつのテーマだと思え、僕が好きなアニメに『ハウルの動く城』がある。
劣等感に付きまとわれているソフィーはハウルが子供であること、ヘナチョコであることを積極的に擁護する。ソフィーにとってはそんな子供っぽくヘタレなハウルは自然で、そしてなにより自由であり、実に羨ましいのである。もちろんハウルは自由(=魔法使いであること)の代償として、命にかかわる契約を交わしているし、大人の戦争に利用されそうにもなる。ハウルはそのように自分を“最良に(ヘタレであることさえも)評価してくれる”ソフィーを守るために、なんとヘタレから脱出するのだった。
本来ソフィーがハウルのヘタレさ(子供っぽさ)を擁護したのは、大人へと成長して欲しいためではもちろんない。ソフィーにとってみればハウルの成長は思ってもみなかったことであり、ヘタレの擁護が別の効果を偶然生みだしたということなのである。もちろんヘタレを脱出したハウルをソフィーが否定することはないだろう。ハウルは自由で自然な意志をもって成長したのだから。ソフィーは図らずもその原因となったまでだ。ハウルははじめて利他的な意志を持つことの原因となってくれたソフィーに感謝することだろう。
しかし、繰り返すがここで大事なのは、ソフィーの意図とは関係なく、ハウルが成長する(大人になる)のは、事後的な解釈であり、語義矛盾のようだが、ハウルは子供であったから、(良い)大人になったのである。

もし、この物語を現代的な機能主義の物語にすれば、次のようになるだろう。
 ハウルは子供っぽく、またヘタレである。ソフィーはそんなハウルを「良い方向」に促したいと思った。ソフィーは『大人になるための100の方法』という本をハウルに読んで聞かせ、また叱咤激励「してあげる」。ソフィーの献身によってハウルはめでたく大人へと成長したのでした。

実際こんな物語はおもしろくないので作られることは無いが、現実社会では一般的なストーリーでは無いだろうか。直接的で即効的な効用(意味のあること)を求めるあまりこうなってしまうだろう。
ここにはすでに多様性の擁護などは存在していない。子供―大人、未熟―成熟の二元論があるだけだ。
だいたい、ハウルは子供―大人(二元論)の世界観に反発する象徴的存在としてあったはずだ。ハウルはソフィーを大人世界(戦争等)から守るために、結果的に成長した(大人になった)のである。その過程にあったハウルとソフィーの意味(世間)を超えたコミュニケーション自体や、タモリ倶楽部のような戯れ的コミュニケーションが偶発性を生み、時に大切なのである。
大人であると同時に子供でもある、あるいは子供でも大人でもないということ。

サブカルチャーはこんな人のためにこそある。