元祖? 少女映画『お茶漬けの味』その2

田舎育ちの「旦那様」(佐分利信)はかなり素朴で庶民的な人柄である。
ご飯に味噌汁をかけるのが好きだし、タバコは「朝日」が好き、結構いい会社の部長さんなのに電車は三等席に「気安い」からあえて乗るのだった。
一方「奥様」(木暮実千代)はお嬢様育ちの有閑マダムでとにかく遊んでばかりいる。
この二人が、想像通り馬が合わない。というより奥様がそんな旦那様を退屈に思い、一方的に邪険にしているのだ。旦那様のその垢抜けなさがいちいち気に食わないようである。
この二人は家でいつも別々の部屋にいるのだが、その対比が大げさでおもしろい。
旦那様は座布団にこじんまりと腰掛け小さな机に向かっている。実に渋い。奥様は西洋風のモダンな部屋で暮らしているのだ。旦那様の会社の社長は奥様のお父さんの友達らしく、何かコネの関係がありそうで、なおさら旦那様の肩身は狭そうだ。
そして奥様は旦那様を「鈍感さん」と陰でののしり、うそをついて学生時代からの友達、アヤ達と泊りがけで温泉旅行に行ったりする。

と、ここまで文章にすると旦那様がかわいそうで、ひどい話にしか思えなさそうだが、実際の映画はそんな感じを起こさせない。
まず奥様とその友達たちが、皆いい年して女学生ノリなのである。
天然で自由で爽やかで少女的で(たまにリアルな描写もあるけど)、いうなればノリが子供のままなのである。憎たらしいけどとても憎めないのである。
そんな中、いつも奥様と遊んでいる姪のせっちゃんは、実は旦那様の見方でもあり、二人の間を都合よく行ったり来たりしている。
お見合いをサボって旦那様に庶民の楽しみ−パチンコや競輪やラーメンを、お嬢様の身でありながら教えてもらったりしていた(せっちゃんは一番自由である)。でもそれらは奥様にばれて旦那様はいつもしかられる。

こんな具合に、まあコメディー的要素も強い作品である。
小津安二郎の映画はたいがいお正月映画なのでいろんな(時に対立的な)関係性があっても大体平和なのであった。

さて、小津安二郎の映画はストーリーを聞いてもほとんど面白そうではない。
しかも現在からすればとてもではないが地味すぎる。活劇の黒沢明はえらい違いであろう。
しかし好きな人は今見ても十分に、いやめっぽうおもしろいと思う。
理由は萌えるからである。
まずセリフがおもしろい。その1でも言及したが無駄に「ちょいと」というセリフが出てきて
その響きに萌えたりする。
「ほんとなの?」「ほんとよー、とってもよ。・・・そうでもないか、せっちゃんコーヒー飲む?」みたいなセリフが出てくるのだが絶妙なリズム感といい、おとぼけ具合といい、最も萌える箇所の一つだ。
そのほか萌えるセリフが幾度となく出てくるし、人物の動きも同様に萌えるのである(ただ動きはとても文章では表せない)。

それから、ちょっとまじめな話をすれば、『お茶漬けの味』の天真爛漫で時に刹那的な少女性、そしてそれを見守る旦那様という構図は、あらゆる対立を、ひいては戦争を回避する小津安二郎の思想なのではと思えるのだ。
『お茶漬けの味』は戦時中、脚本の段階で検閲に引っかかり頓挫し、戦後リメイクされた作品である。
奥様のモダンさや、せっちゃんの自由なキャラ設定が時世にそぐわなかったのであろう。
劇中、戦争を忌避する描写が出てくるが、戦地の東南アジアの砂浜や青い海を懐かしがったりもして、悲惨さを爽やかに転回させたりと、さすがに小津安二郎、紋切り型にはしないなと思う。
とにかく、個性の違うものが同じ場所にいれば対立は自然に起こるし悲劇性を生む。戦争もそうであろう。
物語や映画の中でそういった対立、個性のぶつかりはストーリーの起伏のためにわざと設定されるのが普通だ。だれもが自明に感じ、そっちへ流されていきそうな展開を、小津安二郎はなにか一歩手前で回避してしまうような思想を持っている気がする。
その秘密はなんなのだろうと考えてもなかなか明確には言えないものだ。

ただ、「萌えた」という経験はそのヒントになるような気がするのだ。

余談
①劇中「旦那様」「奥様」と呼ぶ女中(メイドさん!?)の「ふみ」は後に石原裕次郎の奥さんになる北原三枝だが、これまた萌えます。
②『お茶漬けの味』という題名が気になるはずなのに言及しなかったのは見てほしいからです。
③世界の巨匠をサブカル扱いにしてもいいですよね?